2007/02/18 (Sun) アッシュカフェ《5》

(※今回少しグロテスクな表現が含まれますのでご注意。)

 扉は開かれた。改めて見渡す夜の化学室は、寒々しいほど静かだった。空気は張り詰めていて、何も居ないのに――少なくとも、有紗にはそう見える――空気が生きている様だった。
「…何も居ない…?」
「シッ」
 呟いた有紗に対し、トーヤは口元に人差し指を当てて見せた。静かに、ということだろう。有紗は慌てて口を両手で塞いだ。
 ……すると、声が聞こえた。有紗の耳にも。少女の声だ。そして――見えてしまった。有紗にも(・・・・)
「ひっ」
 思わず叫びそうになる口を強く塞ぐ。全身の産毛が逆立った。顔面蒼白、とはこういうことを言うのだろう。有紗の顔は一目でわかるほど真っ青になっていた。
(…タスケテ)
 少女は、囁くような声で叫んでいた。恐ろしいほどの金切り声で。姿を見れば、有紗が着ているものと同じ制服を着て、長い長い腰の辺りまである黒髪を流していた。化学室の後ろの方にある、壁と密着した薬品棚の上にうずくまり、涙を流していた。そして、何故だか後ろの壁が透けて見えた。青い肌。長い長い黒髪。顔は良く見えないので、表情も良くわからないが、声に湿り気が混じっているので泣いている事だけは伺えた。
「有紗ちゃん、あの子の顔は見ないほうがいい。……あんまり、いいものじゃないから」
「…?」
 意味を訊く前に、少女が顔を上げた。そして、目が合ってしまった。言われた傍から、有紗は少女の顔をまともに見てしまった――…。
 声にならない叫び声をあげた。声を出すことも出来なかったからだ。その少女の顔は爛れ、頬は潰れ、造形がよく読み取れないほど崩れていた。頭からは血が流れ、顔の半分を血で濡らしていた。よく見れば、少女は全身に傷を負っていた。ところどころが血にまみれ、制服を汚していたのだ。
 有紗の目からは、知らぬうちに涙が流れていた。あまりの恐怖に、体を動かすことが出来なかった。流れ続ける涙を拭うことも無く。顔を逸らしたくても逸らせない。足は床に縫い付けられたように…。
「…言わんこっちゃ無い」
 少し困ったようにトーヤが言った。そして、その手で有紗の目を覆った。有紗の視界が遮断される。そうなっても尚、有紗は動けずに居た。
(タスケテ。タスケテ。タスケテ。タスケテ。)
 少女の声が繰り返されているのがひたすらに聞こえた。その声が悲しみを帯びているように感じられて…有紗の心を支配した。
「20年前、この化学室でお亡くなりになられた小川亜矢子さん」
 東堂の声が響く。少女の、タスケテ、の声が止んだ。
(なんで、私の名前を知ってるの…?)
 絹を裂くような高い声のまま、少女が答えた。その声の高さに、思わず耳を塞ぎたくなる。
「貴女は何故、ここに留まり続けるのですか?」
 また、東堂の声だ。呼びかけるようなその声は、暖かかった。
 これから、何が起こるんだろう。有紗は視界を塞がれて、大分落ち着いていた。今なら、あの顔を見ても怯えずに居られるかもしれない――…。
「…すみません、トーヤさん。もう大丈夫です。」
 言うと、トーヤは「そう?」などと言いながら手を外した。恐怖よりも何よりも、有紗はこれから起こることが知りたかった。これから起こることを、見届けなければならないような気がしたのだ。
「…教えていただけますか?」
 東堂の声に答えるように、亜矢子はふわりと宙に浮かび、三人に向き合った。


〈第六章へ〉
 

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2007/02/18 (Sun) アッシュカフェ《4》

 ――単なる個人的興味です。貴女の気にすることではありません。
 千暁はそう言ってのけたが、有紗は気が気ではなかった。さっき出会ったばかりの人たちにいらぬ迷惑を掛けてしまっているのではないかと。校門の前から夜の学校を眺めている今でさえ、そう感じていた。
 ――もしもここの幽霊が本物だったら?
 ――危害を加えてきたら?
「有紗さん」
「はいぃっ!?」
 千暁の声で我に返る。どうしました? と訊かれて、何でもないです、と返す。今更後には引けないのだ。本物だったら本物だったで、どうにか対処をしなくてはならないことに変わりはない。全ては自分の後先考えない一言の所為――…。
「有紗さん、口は堅いほうでいらっしゃいますか?」
「……は?」
 ここまで来て、一体どういう質問なのだろう。有紗は不思議に思いながらも東堂の問いに返事をする。
「…まぁ、堅いっちゃ堅い…ですかねぇ…。」
「じゃぁ、お願いします。アッシュカフェで芸能人がバイトしてる(・・・・・・・・・・・・・・・・・)ことは、どうか伏せていてください」
 東堂の言った言葉の意味を尋ねる前に、千暁は細いフレームの眼鏡を外した。
 金色がかった茶髪。青い瞳。女と見間違えそうな程の整った顔立ち。そこに居たのは、紛れもない…。


「ど、どうして歌手のあなたがバイトなんて」
「質問は後。今は進まなきゃ、有紗ちゃん。…ここ、左でいいの?」
「えっ、うわ、はい」
 眼鏡を外して口調まで変わったトーヤ(・・・)に多少の戸惑いを覚えつつ、返事をする。階段を駆け上がり、廊下を左に曲がる。急がなくては、二時になってしまう。
「…やっぱり、眼鏡は無い方がいいね。視界が澄んでる――」
「ところでトーヤ君、わかりますか? この気配…。近づくにつれて、濃度が高くなっている」
 会話についていけない有紗は、ただ早歩きで先を行く二人に置いて行かれない様に付いていくだけだった。…出来るなら、会話の意味を知りたくは無かったためでもある。
 ふと、東堂が有紗に振り向いた。そして早口で言う。
「有紗さん、どうか覚悟をしていてください。20年前の話は本当です。もし見えても、あまり驚かれないように…」
 見えるって、何が。その問いは飲み込む。今更な話だ。答えも聞きたくない。
 化学室の標示のある扉の前で、二人は足を止めた。有紗も同じく足を止める。東堂とトーヤが振り向いた。
「間も無く二時になります。…いいですね、有紗さん。」
「開けるよ」
 言って、トーヤが扉に手を掛けた――

 ただ一つ言えるなら、この不気味さの中、一人ではなかったことだけが有紗の救いだった。


〈第五章へ〉
 

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2007/02/14 (Wed) アッシュカフェ《3》

 ことの始まりは、有紗の一言だった。学校に関するある噂がまことしやかに囁かれていた場で、言ってのけたのだ。
「バッカじゃないの。幽霊なんて居るわけないじゃん。高校生にもなって皆、そんなの信じてんの?」
 教室は一瞬にして凍りついた。有紗がことの重大さに気づいたのは、それから少し後のことだった。


「――ま、よくある話ですけどね。それじゃぁお前確かめて来い、なんて言われて。引き下がれないでしょう、ここまで来たら!」
「……けど本当は、幽霊が怖い?」
 千暁に穏やかにそう問われて、有紗は頷かざるを得なかった。
 有紗は臆病だった。目に見えない恐怖が大の苦手だった。けれど少女は意地っ張りな上に負けず嫌いで、真っ直ぐだった。
「……今日の夜。夜中の2時。私は学校に行かなきゃ行けないんです。そして…噂の真相を確かめなくちゃ」
 中央棟4階、化学室。そこには救われないままの魂が居る。20年前、授業の実験の途中。大きな地震が起こり、一人の少女だけが逃げ切れず、そこで命を落とした――。
「夜中の2時になると囁くんですって。助けて、助けて、怖い、助けてーって。」
 東堂と千暁は顔を見合わせた。そして――ふっと、二人同時に笑んだ。その意図がつかめず、有紗がぽかんとしていると、そこに東堂が語りかけてきた。
「星野さん。私達もそれに付いて行ってはいけませんか?」
「……はぁ?」
「貴女も、一人で行くよりはいいでしょう?」
 そう付け足したのは千暁だ。
 確かに、有紗もそうして貰えるのならそっちの方がいいと思っていた。だが、しかし…何の関係も無い人間に、そんな迷惑をかけるのは失礼だとも感じていた。それは少女の生真面目さ。責任感。……原因は、自分なのだと。
「ねぇ、有紗さん。」
 千暁はさっきと同じような穏やかさで言った。その声色が、例の歌手の歌声に似ているように感じられて、有紗には可笑しく感じられた。
「これは僕達のお願いなんです。……一緒に行かせてもらえませんか?」
 …そういう風に言われて、断れるほど有紗は器用な人間ではなかった。


〈第四章へ〉
 

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2007/02/14 (Wed) アッシュカフェ《2》

「どうぞ」
 気がつくとさっきの店員が目の前に立ち、少女の目の前に紅茶を置くところだった。カタン、と静かにティーカップが置かれる。続いて、その近くに小さなポットのようなものが二つ置かれた。そのうちの一つには小さなスプーンがささっている。察するに、砂糖とミルクだろう。
「ど、どうも…。」
 そう言うと、店員はにっこり笑んで去っていった。カップに口をつける。熱々の紅茶で舌を火傷しそうになりつつ、飲んだ。砂糖もミルクも入れずに、そのまま飲んだ所為かほろ苦かった。けれど、その味は何だか安心させるような味で。ふぅと一息吐いた。少し冷めるのを待とうかとカップを置いたところで、目の前に幾つかのクッキーが乗せられた皿が置かれた。頼んだ覚えはない。なんだろうと見上げると、そこにはさっきからよく目の前に現れる金がかった茶髪の店員が居た。
「あのぅ…」
 頼んでないんですけど、と続けようとした言葉が遮られた。
「サービスです。お客さん、元気ないみたいなので」
 そう言って店員は笑い、このクッキー、紅茶によく合うんですよ、と続けた。
「あ、有難う御座います」
「礼なんて良いんですって。……それより」
 店員の笑みが、一瞬だけ、少し企んだものに感じた。そう思った瞬間。
「良ければ、お話、聞かせてもらえませんか?」

※※※

 良ければ、何て言った割に、店員はさも当然のように少女の目の前の席に座った。店員と向かい合う形になる。
「名乗り忘れていましたね。僕の名前は千暁(ちあき)です。お好きに呼んでください。」
「はぁ…。」
 やはり、例の歌手に似ているようにしか見えないのだが…名前も違うし、本人も違うといっているのだから違うのだろう。少女はそう思うことにした。
「えと、私は星野有紗です。…どっから話せばいいのか…。」
「説明しやすいところからどうぞ」
 そう言ったのは千暁では無かった。声に見上げると、いつの間にかテーブルの横に一人の男性が立っていた。千暁がしているような丈の長い黒のソムリエエプロンではなく、胸元から膝下くらいまであるラップエプロンを着ていた。
「東堂さん」
 千暁に東堂、と呼ばれた男性は有紗の方を見て微笑んだ。
「店主の東堂です。お話の続きをどうぞ」
 この席に店主まで集まってきて、他のテーブルは大丈夫なのだろうか。そう思い店内を見回すと、自分以外の客が居なかった。
 ……なんだ、これ。
 そう思っていたのが顔に出ていたのであろう。二人は有紗を見てくすくすと笑った。
「ご心配なく。怪しいもんじゃありませんから」
 そう言って笑う千暁に促され、有紗は話し始めたのだった。


〈第三章へ〉
 

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2007/02/12 (Mon) アッシュカフェ《1》

 世の中にはいくつもの迷信がある。黒猫が道を横切ると良くない、夜に口笛を吹くと蛇が出る、霊柩車を見たら親指を隠さないと親族が死ぬ…。これらはほんの一例に過ぎない。そんな迷信を真剣に信じる者も居れば馬鹿にする者も居る。何が正しくて何が悪いのかなんて誰にも解らない。けれど。
「……黒猫。」
 こんなときにこんなことがあれば、誰でもムキになってしまうものではあるまいか?
「っのやろっ!」
 少女は駆け出した。たった今目の前を横切った金の目の黒猫を追いかけて。迷信を信じるも信じないも自由だが、何だか気になってしまう時だってある。少女はそうやって自分を納得させ、走り続けた。黒猫はまるでついてこいとでも言うように時々立ち止まってはこちらを見やる。その行動がさらに少女を逆上させていることに気づいているのか居ないのか。
 しばらく走り続けていると、何だか見かけない道に出た。いくつもの店が並んでいる。その店のほとんどが飲食店らしく、どの店からもいい香りが漂っていた。その店の群れの中の一つ、香りから察するに喫茶店の前で猫は足を止めた。そしてもう一度こちらを見やって、すぅと中に入って行った。どういうわけだかこの店のドアには猫用の通り穴らしいものが取り付けてあり、黒猫はその扉の中に消えた。
「…何? ここがあんたの家ってわけ?」
 少女はただ導かれるままにドアに手をかけた。ふと横を見ると立て看板が出ていて、そこにはカラフルなチョークでメニューが書かれていた。その看板の一番上に大きく、店の名前らしいものが書かれていることに気づき、見つめる。
 …"Ash Cafe"? つまり、単純に訳して灰喫茶? どういう名前だよ、と内心突っ込みを入れながらドアを開いた。カランカラン、と軽い音のドアベルが鳴った。何だか気恥ずかしくなる。店内に入ると、益々コーヒーの香りが強くなった。少女はコーヒーよりも紅茶の方が好きだったが、ここまで来れば引き下がることも出来まい。
 とりあえずは店内を見回して、適当な席に座った。カウンター席に座る程の勇気を持ち合わせていなかったので、店の奥のほうのテーブル席にひっそりと腰を下ろした。近くに窓があり、その横の棚の上にさっきの黒猫が居た。何食わぬ顔で毛繕いをしている。本当にここの猫らしい。看板猫ってやつ? なんてことを考えながら、メニューに目を落とした。そうしているうちに店員らしい少年がやってきて、にっこりと笑みを湛えた。注文はお決まりですか、などとお決まりの科白を吐いてくる。
 コーヒーがメインみたいだが、紅茶も少しだけ置いているみたいだ。その中で一番安い紅茶を頼んだ。そこでやっと店員の少年の顔をまともに見たが…。
「………どっかで見たことある気がする」
「へ?」
「あ、いや」
 どうやら声に出てしまっていたらしい。金色がかった茶髪、大きな青い瞳――外人らしくはないので、コンタクトなのだろうか?――一般人にしては異常なほど白い肌、すらりとした体つき。細いフレームの眼鏡をかけているが、それは。
「…もしかして歌手のトーヤさん? ………とか…。」
 途中で自信がなくなって、声が尻すぼみになる。確かによく似ているのだが、少女は芸能人に特別な興味を示さない。おまけにその芸能人の眼鏡をかけた姿を見たことがないため、確証が持てない。間違っていたら相当失礼だ。
「……あぁ、よく似てるって言われるんですよね」
 どうやら少年は慣れているらしく、微笑してそう言っただけだった。そしてテーブルを離れ、カウンターの方へと戻っていってしまった。
 居た堪れない気持ちになってくる。
「見れば見るほど似てるなぁ…。」
 本人ではないと解っていても、気になって目で追ってしまう。一般人だとわかっていても、特殊なオーラを放っているように見えてしまうのだ。
 ……まぁ、気にしすぎても仕方ない。第一、あまり見つめても失礼だ。少女はそう思い直し、することもなく店内に視線をさまよわせながら、頼んだ紅茶がテーブルに着くのを一人、待っていた。


〈第二章へ〉

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